国家の暴力


 どうしてか地球上では国家だけが暴力を許されている。
戦争によって殺人を強要するのも、死刑をもって人を罰するのも、
国家だけだ。

 国家のやることは個人の責任の範囲を越えているが、
それは国家が幻想集団であり、架空の人格だからだ。
それもかなり過激な人格だ。

 国家が幻想集団なら、
それを構成する個人も実は幻想のパーソナリティなのだが、
脳内では「自己同一性」追求機能が働いているので、
この愚かさには一人ひとりは日常迂闊なのだ。

 方丈記には、
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・」、
人生は万物流転なのだと。
 しかし人は、日常生活においては、
自分というものは常に変わらないという誤った大前提のもとで行動している。
 ここに<自我というもの>の成立がある。

 自我は本質的に不安定なものなのに、
 変わらないという大誤解のもとで自我の安定を常に計ろうとしているから、
自我に何かしらでも不安定感を感じてくると、幻想に迷い込み、幻想に頼り、
幻想でもって自我の安定感を得ようともする。

 そこに、現実には何ら危害を加えてくる危険のない相手にも
脅える要素が入り込んで来る。
 この脅えは芽生えると、どこまでいっても終局的に安定することがなく、
ここまでやれば満足ということもなく、きりがないのだが、
この幻想的自我安定感は、動物にはなくヒトのみに特有なものである。

 集団を統治する者にこの脅えが芽吹くと、
相手を取り込むことで脅威対象を解消しようとし、
それができないとなると、相手を破壊しょうとする行動にでる。

 一般国民であれば、破壊行動というものは法(国家権力)で
厳に取り締まられるのだが、
集団の統治者(一面では国家)はこれを無視することが可能なのだ。

 無視するには、お膳立てが必要だが、
その無視の旗印が<己のみ善>という偽善の自己安定幻想感だ。

 この幻想自己安定感は、
同調者を回りに置くことでさらに増強できるので、
同調者ばかりで集団を固め、
知りたくないことには耳をかさない体制を作ろうとする。
 残念ながら、ここに集団共同幻想の闇ができるのだ。

 この闇は養老孟司流に言えば、バカの壁と言えるものなのだが、
養老が言うには、ある種一元論・原理主義に起因すると・・・。
 バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない、
というか、向こう側はあえて見る必要を感じないのだ。

 現代世界は三分の二が一元論宗教の社会だ。
と言うことは、ロシアのウクライナ侵攻はいうまでもないが
独裁国家としての芽は、民主主義国と雖も一元論宗教の社会であれば、
それはあるということだ。

 これはキリスト教やイスラム教などの一神教社会はもちろんだが、
民族宗教もその範疇だ。
また、権力の集中し易い共産主義思想もその範疇だ。
 このことは、歴史が我々に教えているところのものである。

 なお、宗教について一言付け加えるなら、
宗教は戦争開始の強い要因にはなりえても、
戦争を押しとどめる力は弱いのである。

 21世紀、人は今、
<生き方の多様性>に<いのち>の有り様を求めて努力している。
 その多様性の追求は、人が生きるうえでの
あらゆる面での差別・虐げを排除しょうとするものだが、
往々にしてその妨げとなるのが何かしらの暴力だ。
 中でも一際狂暴と言えるものが権力的暴力だ。

 権力的暴力は<生き方の多様性>を否定し停滞させる。

 法的措置をすれば改善できることへの法的措置の怠り、
権力行使の乱用、なかでも権力的暴力の最大級のもの、それは戦争だ。
戦争は無用な殺戮をする。無用な殺戮をするのは人間だけだ。

 この国家暴力は一面人間社会の構造的な闇と言えるものだが、
<生き方の多様性>以前に<いのち>そのものを粉砕する。
問答無用で<いのち>を破壊する。
 無用な殺戮ながら、国家暴力というバカの壁は、
これは正しい目的のためだから、手段の悪は免責されると・・・。

 そして、壁の内側での愚かな信念をさらにポピュリズムで強固にしようと、
今日ではSNSなどを駆使してフェイク情報を流しもがく。
 こうしたバカの壁の歴史の中での昨日の場面がナチズム、
そして今日の場面がロシアのウクライナ侵攻だ。

 「フェイク」情報というものは、これが権力から発信されると、
とてつもない混乱を産む。
 この暴走は、幻想という暴走エネルギーが尽きるまで収まることはない。
国家権力とはかくも厚かましくうそぶいて平然と振舞える座であるのだ。

 ロシアのウクライナ侵略を見て、
今自衛隊を憲法に盛り込もうとする動きが強まっているが、
国軍となるとどうなるのか。
 そこには残念ながら、
隊員は「俺たちは、憲法に則った特別な地位にある。」と錯覚するとともに、
社会には国を守ろうとしない者は非国民だとする風潮が必然的に生まれ、
国を守る前に国民のいのちが拘束されてしまうのだ。

 どこの国についても言えることだが・・・
必要なのは、国家というものは、出来る限り民衆に寄り添う
民衆への利他機関なのだという概念の定着と
これを再認識し続ける作業である。

 時代はかなり 「危うい今」 といえる。

 ところで、大きな時間で見ると、
人類の歴史は集団間の闘争の歴史と言えるものだっただろう。
 では、なぜ人類が闘争・戦争を繰り返すのか。
 それは、自然の摂理の働きと言えるのではないか。

 多様な生命体で構築される、そこに<いのち>全体のバランスがあるのに、
何がしかの種の突出した数の生命集団が出ることは、
自然界の種の全体の<いのち>にとっては有害なのだ。

 人類は増えすぎたのだ。
そして人類が生き物の頂点なのだと錯覚した時代を
迂闊にも過ごしてきてしまったのだ。
 そうした人類の行動を、自然の摂理は、
自然界から突出するある種の数を調整するための弁として
人類に疫病や戦争を与えているのかも知れないのである。

 <自然の摂理に沿った生き方をする>ことの必要性を
人類は今一度思い起こし、舵を切らなければならない時代なのである。

 しかしながら、時代は今AIの技術進歩に触れることが
自分が進歩世界の人間かのように錯覚した世界に包まれている。
 これは自然摂理からくる所作からは増々遠い自我を構築することになり、
ついには個を国家に預けるような環境を作りだすだろう。
 そして、個はいつの間にか国家暴力に巻き込まれることになるだろう。 (凡夫人)