「ものを見る目」
「世界全体というのは、実はわれがすきまなく配列されたものである。
・・・・・われを配列しておきながら、自分がそれを見ているのである。
(道元 「正法眼蔵 有時の巻」より)」
この言葉は、同じ事物を見ていても、思いや感じ方などは各人各様であるの
が常であり、全く重り合うような見方などはないということを言っている。
つきつめて言えば、独りよがりの味方しかできない。
そして、そういうことを理解したうえで、事物に接するのは如何と。
言葉を変えれば、
「私たちの判断基準は全て自分の貧しい経験にしか拠り所がありませんから、
そんな自分の尺度でしかものは見えないのです。困ったことです。しかしそれ
しかできないということも歴然たる事実なのです。
私たちには自分の感性や乏しい知識の量に見合うだけのものしか見えはしま
せん。見えるのは自分の似姿ばかりです。
これを仏教的にいいますと、例えば「私」はそれ自体として固有の存在であ
るのではなく、この私を見る人によって受け止められたその姿としてしか相手
に認知されない、ということです。
つまり、私は私を知る人の数だけ、異なった存在としてあるのだ、というこ
とです。しかもそれは時々刻々と変化しているに違いありません。」
(沖本克己 「仏教を生きる 道元」から)」
ということである。
「仏教では、わたしたちの心の中に仏の心もあれば人間の心、愚かな畜生の
心、貪りの餓鬼の心、怒りの地獄の心などさまざまな心があるとする。そして
それが、『縁』によってひょいと出てくるのである。
図々しい感じの人間に相対すると、こちらもついつい意地悪になってしまう
ことがよくある。やさしい人と接すると、こちらの心もやさしくなる。心はす
べて『縁』によって、やさしくもなれば意地悪にもなる変わりやすいものであ
る。
したがって、わたしたちは、自分の心をやさしくするためには、『良い縁』
を作らなければいけない。そして、同時にわたしたちが相対する人もこちらと
の『縁』によりやさしくもあり、図々しくもあるのだということを知っておく
べきである。『縁』というものは、いつでも相互的なものである。
(ひろさちや 「仏教とっておきの話」から)」
これは、前の文の<時々刻々の変化>を『縁』で受け止めたものである。
しかし、やさしさの全てが善なるもので受け止められるか否かはこの世間で
は別ものである。そこには常に迷いがある。
五木寛之氏はそこのところを次のように書いている。
「結局、最後のところは、<他力>ということなんだろう」と、最近、深夜に
目覚めて、しばしそう思うことがあります。
今日までこの自分を支え、生かしてくれたものは何か。この明日をも知れな
い時代に、信じうるものははたしてあるのか。
自分ひとり何をどうがんばろうと、大きな社会の変動や時代のうねりの前に
は、ほとんど無力なのだ、と、体のどこか深いところで感じているようなので
す。
だめなものはだめ、できないことはできない。個人の努力も善意も、むくわ
れないときはむくわれない。いや、むしろそのほうが多いのが人間の世界であ
る、と心の底でひそかに思っているのです。
正直者がばかをみる、という言葉を聞いて、十代のころ思わずびっくりした
ものです。なんだって? これまで正直者がばかをみなかった時代なんて、一
度でもあったんだろうか。いまごろ何を言っているのか、と素直に驚いたから
です。
正直ものがばかをみるのは当たり前だ、と信じていればこそ、私はこれまで
に何度全身全霊で感動できる、めったにない出来事を体験することがあったの
です。
世の中には、正直者がばかをみないことも、ごくまれにはあるのです。それ
は事実です。私はこれまでに何度もそういう例を見てきました。そして本当に
心の底から感動したものです。
努力がむくわれることもまた、まれにあります。めったにないことだが、絶
対にあります。努力がむなしなどとは決して思いません。しかし、それはこの
世の中で、ごくごくまれな、大げさに言えば奇跡のような事件としてあるので
あって、それ以上ではないのです。
露骨に言ってしまえば、正直者はおおむねばかをみます。努力はほとんどむ
くわれることはありません。
そういうものの見方は、どこか歪んでいるように思います。決してノーマル
ではないでしょう。しかし、歪んだ鏡に正しい像は映りません。時代には<常
時>と<非常時>があります。
いま、私たちが時代のどこに立っているのかが問題なのです。」
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