「無眼人、無耳人」
野田風雪 氏に、次の一文がある。
【無眼人、無耳人】
「人間の目は、本来外側を見るように出来ている。
だから内側を見ることは大変困難である」
と、昔の哲人が言った。
すばらしい目、しかしこの目も、
見ようという心がなかったら、見ていても見えない。
すばらしい耳、しかしこの耳も、
聞こうという心がなかったら、聞こえない。
「耳は定期的に洗わねばならない」とも・・・。
釈尊の言葉に、
「いずこへ赴こうとも、人は己より愛しいものを
見出すことはできぬ・・・」と。
「人はこのように自分のことだけに「執着」しますから、
他人のことなど考えない。そういう自身が見えてない。
この「見る・聞く」ということは気付くということですね。
金子大栄先生は、「佛法は毛穴で聞く」と言われました。
身で聞くのですね。身に頂くのです。
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さて、この「見る」ということについては、
道元禅師の「正法眼蔵 有時の巻」に
『世界全体というのは、
実は [われ] がすきまなく配列されたものである。・・・
[われ] を配列しておきながら、
自分がそれを見ているのである。』とのことばがあるが、
この禅師のことばに、
「正信偈」中の「煩悩障眼」に重なるものを見る。
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道元禅師を掲げたので、
対立と一般的には考えられている浄土真宗について、
玉城康四郎著の「佛教の根底にあるもの」の中で
語られていることばをみると、
『佛教のなかでは、「救い」と「悟り」の
二つの観念が並立あるいは対立して、
浄土教では「救い」が主題であり、
禅では「悟り」が目標である、
というのが一般的理解であり、
これを既定の観念として、
浄土と禅を解釈しようとする傾向が強い。
これは宗教的世界の構造が違うことからくるもので、
親鸞は救いに至る道すじを説き、
道元は悟りそのものの在り方を語っている。』
『親鸞の場合、
救われている状態を突き詰めると、
「無明法性ことなれど、心はすなわちひとつなり、
この心すなわち涅槃なり、この心すなわち如来なり。」
「弥陀の本願信ずべし、本願信ずるひとはみな、
摂取不捨の利益(りやく)にて、無上覚をばさとるなり」
となって、
救いと悟りとはもはや区別できなくなるであろう。』
・・・と語られている。
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『信は道の元、功徳の母と為す。』
<信>とは<仏道の根元>であり、
功徳を生む母親となるものである。
-「華厳経」 賢首菩薩品(げんじゅぼさつぼん)-
禅師の名は、ここに由来する由。
聖人の<信>は「歎異抄」の冒頭にひろがっているが、
「よきひとのおおせをかぶりて、
信ずるほかに別の子細なきなり。」・・・と。
「よきひとのおおせ」は、
「浄土宗のひとは愚者になりて往生す。」・・・と。
禅師の信と聖人の信、この二つの「信」は
区別できるのか。
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他者のいのちを巻き添えにする信、
それを疑わない信、
それが権力にも及ぶと、時代を巻き添えにする。
「無眼人、無耳人」であってはならないだろうと思う。
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