どうしてか地球上では国家だけが暴力を許されている。死刑をもって人を罰するのも、 戦争による殺人を強要するのも国家だけだ。国家のやることは個人の責任の範囲を越え ている。国家は架空の人格だ。それもかなり過激な人格だ。日本の法務大臣が死刑を執 行するのをイヤがっていたのが象徴的ではないか。個人には罪悪感があるが、国家は人 を殺しても苦しまない。国家に道を説くことはできない。心あるのは一人一人の人間な のだ。 今回のデモ、ミャンマーの僧侶たちの願いはなんだったのだろう。国との衝突ではなく、 人と人との対話による解決ではなかったのか。対話のためには、殺されても文句を言わ ない覚悟がいる。やり返したら結局は戦いになる。だから対話は最も難しい道だ。対話は とても時間がかかるし、根気がいるし、対話によって結果は出ないかもしれない。結果が 出ないから対話は軽んじられがちだ。そんなことは絵空事だと言われてしまう。 たぶん結果を求めることが対話ではなく、対話というプロセスが可能性そのものなの だ。純粋な可能性の場。それが対話の本質であり、勝ち負けを越えている。 でも、果たして人は対話を望んでいるだろうか。この道はあまりにも、険し過ぎる。 |