<国家の暴力>どうしてか地球上では
国家だけが暴力を許されている。
 <戦争について -人はなぜ人を殺すのか->人間だけが無用な殺戮をします。
人間の攻撃は、
幻想である自我の安定や拡大のためですから、
現実に何ら危害を加えてくる危険のない相手にも
脅えるのです。
どこまでいっても終局的に安定することがなく、
ここまでやれば満足ということはなく、
きりがないのです。
 <集団と狂気>集団は、常に、
その中の賢明な個人よりはもちろん、
平均的な個人よりも愚かである。
集団の一員として行動するときは
必然的にわれわれは愚かなことを
仕出かしがちであることを
知っておかなければならない。
 <神より人間>21世紀、人は今、<生き方の多様性>に
<いのち>の有り様を求めているが、
その前に突如現れかねないのが国家の暴力である。
国家暴力はそのような思いを粉砕するのである。

<バカの壁 -「話せばわかる」は大嘘->バカの壁というのは、ある種、
一元論に起因する。
バカにとっては、壁の内側だけが世界で、
向こう側が見えない。
向こう側が存在しているということすら
わかっていなかったりする。
 <万物流転 -私は昨日の私ではない->「ゆく河の流れは絶えずして、
しかももとの水にあらず」
これは、永遠の「自己同一性」追求のおろかさを
気づかせる言葉である。
人間は変わらないという誤った大前提
ここに集団共同幻想の闇が潜んでいる。
 <漂流する魂たち>正しい目的は手段の悪を免責する。
真理を独占すると信じる集団の、
そうした内密の教義に
私たちは歴史の中で、経験の中で
何度出会ってきたことか。

<戦争を知らないということ>語られていない戦争の現実
戦争で殺す相手は人間ではない


(同朋 2007.12)
【国家の暴力】
田口ランディ


  どうしてか地球上では国家だけが暴力を許されている。死刑をもって人を罰するのも、

 戦争による殺人を強要するのも国家だけだ。国家のやることは個人の責任の範囲を越え

 ている。国家は架空の人格だ。それもかなり過激な人格だ。日本の法務大臣が死刑を執

 行するのをイヤがっていたのが象徴的ではないか。個人には罪悪感があるが、国家は人

 を殺しても苦しまない。国家に道を説くことはできない。心あるのは一人一人の人間な

 のだ。

  今回のデモ、ミャンマーの僧侶たちの願いはなんだったのだろう。国との衝突ではなく、

 人と人との対話による解決ではなかったのか。対話のためには、殺されても文句を言わ

 ない覚悟がいる。やり返したら結局は戦いになる。だから対話は最も難しい道だ。対話は

 とても時間がかかるし、根気がいるし、対話によって結果は出ないかもしれない。結果が

 出ないから対話は軽んじられがちだ。そんなことは絵空事だと言われてしまう。

  たぶん結果を求めることが対話ではなく、対話というプロセスが可能性そのものなの

 だ。純粋な可能性の場。それが対話の本質であり、勝ち負けを越えている。

 でも、果たして人は対話を望んでいるだろうか。この道はあまりにも、険し過ぎる。